一番古い記憶は、多分3歳になったかならないか位の頃。












一炊之夢











気がつけば、広い畳敷きの部屋にはいた。
高い天井に張り巡らされた梁も、襖で仕切られたその部屋も、そこに置かれたわずかば

かりの調度品も何もかもが見知らぬものだと一瞬で悟った。
もう少し成長した頃であれば、理解のできない現象  何せ、つい今しがたまではカラフル

なマットの敷かれた専用の子ども部屋で柔らかなボールを転がして遊んでいたの

だ  に泣き喚いただろう。そうして駆けつけた大人達によって捕らえられ、酷い目に遭わ

されたに違いない。
だが、はまだ物事に物怖じしないほどに幼かった。
不思議な現象にただこてん、と首をかしげ、人気のないその部屋をくるりと見渡して  彼

を見つけた。


自分の膝のすぐ前、白い布団に包まれた『それ』が『赤ちゃん』だとは知っていた。
病院や公園で同じように小さい『赤ちゃん』を何度か見たことがあったし、子どもは子どもに

興味を持つものだ  特に、自分より小さい子どもに。
だからこのときもは身を乗り出して目の前の赤ん坊の顔を覗き込んだ。


「……ふやぁ」


静かにじっとしているから寝ているのだと思っていた赤ん坊は、けれどしっかりと目を開い

てまっすぐにを見返した。
そうして気の抜けるような声をこぼし、へにゃりと笑んだ。



それが、最初。
そしてはじまり。



「あ、笑った」と思った瞬間にはもう、は見慣れた部屋に戻っていた。
戻ったのだと理解するのとほぼ同時にガチャリと部屋のドアが開いて母親が顔を覗かせ

に声をかける。それはいつものことで、あまりにも何も変わらないからこそ、不思

議な赤ん坊のことは夢かとは思った。

けれど、その夢は夢ではないと自己主張するかのようにそれからも頻繁にを浚っ

た。
初めの頃はあの広い畳の部屋で、赤ん坊は大抵が寝ていたが、起きているときは泣きも

せずにの顔をじっと見てへにゃりと機嫌良さそうに笑った。赤ん坊が笑うととても可

愛らしくても嬉しかったから、もやっぱり赤ん坊を見て笑う。時間にすればほ

んの数十秒から長くても数分で、その代わりなのか何なのか、日に一度は必ず、酷いとき

は数度は赤ん坊の部屋へと浚われた。
そうして過ごす内に、それは二人ともに誰の目にも触れていない間だけ起こるらしいと気

づくと、は強いて一人になるように努めた。
友達と遊ぶのも楽しかったが、それ以上に赤ん坊に会えるのが嬉しかったのだ。
何故、とかあれは何処なのかとか何も考えなかったのはの幼さ故だろうが、小学

校へ上がる頃になってもそれはすでにの日常の一部になってしまっていたので、

相変わらず疑問に思うこともなかったけれど、ただ何となく「これは他の人の「当たり前」な

こととは違うのだ」とは気づいていたので誰にも、両親や妹にもこのことを言ったことはな

かった。
そんなだけの「当たり前」が、じわじわと変わり始めたのもその頃だった。

当初は頻繁に起こっていたそれが、が小学校へ通い始めてからは2・3日に1度と

なり、10日に一度になり、あるときからはぱたりと会えなくなった。

クラブ活動に塾に習い事にとの身が忙しくなったこともあるだろうし、成長した赤ん

坊も同じだろうから、そのせいかとは思ったが、それでもは一人になることを止めら

れなかった。
孤独を好むの周囲から次第に友達は数を減らしていったが、それでも受け入れて

くれる子はいたし、にはそれで十分だったから気にはならなかった。
ただ、あの子に会えないのが淋しかった。



そうして2・3年が過ぎた頃。
再びそれは起こった。



「お…前…」
「あ…」


ふと目の前が翳ったかと思えば、目の前にあの子がいた。
薄暗い部屋の隅、最後に見たときよりもずっと体つきもしっかりしていたし、背も高くなって

いたけれど、すぐにあの子だと分かった。
それは相手も同じだっただろう。
けれどあまりにも唐突過ぎて、お互い目を見開くだけで言葉が出てこなかった。


「お前…いきてたのか」


口火を切ったのは相手が先だった。
そして、そう言った途端にくしゃりと顔を歪めた。


「いき、いきてたのならなんで…っ」


何で会いに来なかった!
責め立てる声には確かに涙が混ざっていて。
は慌てて駆け寄ると拳を固めて膝を抱くその手を上からぎゅっと握った。


「ごめんね」
「お前までっ、お前までいなくなって、おれはっ!」
「うん、ごめんね。私も会いたかったよ。ずっとずっと会いたかったよ」


それが嘘じゃないと訴えるかのように握る手に力をこめれば、俯いたままのその子はそれ

でも膝を抱く手を片方だけ解いての手を握り返してきた。


「……やっと会えたね」


お互いの呼吸が落ち着くまでのしばしの間をおいてそう言えば、「うん」と返事が返ってく

る。相変わらず顔は見せてもらえないままだったけれど、返事があるだけで嬉しくて**

*は目の前の小さな頭を撫でた。・・・が


「っ、さわるな!」


ぱしんとその手を弾かれ、それに驚いている間に小さな体は部屋の対角へと逃げてしまう

。そうして薄暗い部屋のさらに薄暗い隅に隠れるようにまた膝を抱えてうずくまってしまっ

た。


「…どうしたの?」
「……おれに、さわるな」
「どうして…?」
「………」


訊ねても、もう答えは返ってこなくて。
仕方なく、はそっと近寄ると、その子の正面に腰を下ろした。


「………」
「………」
「………ねぇ」
「………」
「…やっぱりまだ怒ってるの?」
「………」
「でもね! 私だってずっとこっちに来たかったんだよ? だけど人に会わないようにこっそ

り一人になっても全然こっちに来られなくて、どうしていいか分かんないし!」
「………」
「……ごめんなさい。そんなに怒んないで」
「…………違う」


ポツリと、返された声は小さくかすれていた。


「え?」
「お前が……おれにさわったらうつるから、だから」
「うつるって? …病気?!」


しんどいの?
お熱ある?
慌てながらも見よう見まねで熱を測ろうと伸ばした手は、「さわるな!」再びの拒絶に遭っ

て行き場を失ってしまう。


「いま、じゃない。もう、いまはへいきだ」
「じゃあもう今は大丈夫?」
「うん」
「しんどくない?」
「ない」
「お熱もない?」
「ない。……けど、」
「そっかぁ。元気になってよかったねー」


行き場を失って中途半端に浮いていた手が俯いたままの頭をわしわしとかき回せば、漸く

持ち上がり、改めて顔が見える。
右目を布で覆われた、幼い顔が。


「怪我したの?」


訪ねれば、びくりと薄い肩が跳ねる。
けれどもう、再び俯くことはなくただ首を横に振るだけ。


「これ・・・は、やまいで」
「やまい? 病気のこと? さっきの?」
「そうだ」
「……痛い?」
「いや……いまはへいきだ」
「そか。しんどかったね」


再びわしわしと、けれどさっきよりは幾分か気を遣って優しく頭をなでまわす。
その頭が段々と下がっていったけれど、今度はは気にしなかった。


「偉いね、よく頑張ったね」
「…っふぇ…っ」


小さな手が、自分の膝ではなくの腰にしがみついていたから。













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一炊之夢:米を炊くひと時の間に見る儚い夢